<7月の禅語> 「葉々起清風」(虚堂録) 葉々(ようよう)清風を起こす

 自然の清々しい風光を味わう語とするだけでも好いが、禅語として深く訊ね

味わいたい語である。これは虚堂和尚の「衍(えん)鞏(きょう)?(きょう)の

三禅徳国清に之(ゆ)く」と言う題の偈の一節の語

  誰れか知らん三隠寂寥の中

  話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす

  相い送って門に当たれば脩竹あり

  君が為に葉々清風を起こす

 この語は虚堂和尚の住まう鷲峰庵にかつての弟子や仲間だった三人の

道友が、これから遥か遠い天台山の国清寺にある三隠(寒山、拾得、豊干

の三人の優れた禅者)の遺跡を訪ねんと言い、その旅立つ前の別れに来た。

 今度は何時会えるとも分からない。別れ難く門のところまで見送りに出てきたら、脩竹の一葉一葉まで

もがさらさらと音をなして、別れを惜しむかのようにさわめき、清風を送ってくれている。

 見送るもの、見送られる者の別離を惜しむ心情がひしひしと感じ取れる。それと同時にお互いの清らかな

心の交流は脩竹の起こす清風にも感じる。「小人の交わりは甘きこと茘(れい)の如し、君子の交わりは

淡きこと水の如し」の語のようにさらっとしている。

 お互いの心の交わりは会うている時よりも、別れるときにこそ真の心が現れ出るものである。井伊宗親

(直弼)は茶湯一会集の中で「そもそも茶の交会は一期一会といいて、たとえば幾たび同じ主客と交会

するも、今日の会に再び帰らざることを思えば,実に我一世一度の会なり」と言い、その出合いのひとときを

大事にすると共に、客が帰り最後まで見送りした後も、炉の前に戻り余情ををもって、独り茶を服す事、

是一会極意の習いであると述べている。「君が為葉々清風を起こす」は清々しい出合いと別れのきびを

味わう語である。

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