<今月の禅語>

       鶏寒上樹鴨寒下水 (景徳伝灯録)






 〜鶏
(とり)は寒うして樹に上り 鴨は寒うして水に下る〜



此の語は「巴陵三転語」として知られるの中の「銀(ぎんわんり)に雪を盛る」

「珊瑚枝々
(さんごのしし)月を(とうちゃく)す」に並ぶ一つである。

他の二つ語はここでは別の機会にゆずるが、巴陵鑑
(はりょうこうかん)禅師は

雲門禅師に法を嗣
(つ)ぎ、岳州巴陵の新開院に住された。弁舌さわやかで

「鑑多口」
(かんたく)とさえあだ名されるほど雄弁に禅法を説かれながら生没

不詳であるところに禅師の境涯の一面があるのかも知れない。

ある僧が巴陵和尚に問う「祖意と教意と是れ同じか是れ別か」

巴陵和尚は是に答えて「鶏寒うして樹に上り、鴨寒うして

水に下る」と。禅は仏教の中でも特異な存在であり、「不立

文字教外別伝」
(ふりゅうもんじきょうげべつでん)といい、経典

文字によらず、坐禅による見性成仏という、自らの仏性の

目覚めによる悟りの境地を大事にする。そのため一般的な仏教

教義より、祖師の説く禅法を重視する傾向にある。

このところから出た問答がこれである。


巴陵和尚は答えて「鶏は寒くなると樹に上がって、じっと身をちじめてしまうが、

鴨は寒くなると水に入って却って元気に泳ぐものだ」と言ったのは同じ現象、

一つの事柄に対して受ける側の本性、性質、感性の違いによって、その反応は

それぞれに別の現れ方をするものであることを述べたのだった。小学唱歌の

「雪やこんこんで、犬は庭駆け回り猫はコタツで丸くなる」ということと同じ

現象でもあろう。人それぞれに個性があり、性質も違う。同じ事柄に対しても

受け取り方も、反応も異なる。仏教は同じお釈迦様の教えなのに、様々な宗派が

あり、教団があるのはなぜなの?という人がいる。「お釈迦様の説いた仏教として

対立しあうことなくひとつにまとまればいいのに」ということを思うらしい。

確かにお釈迦様の説法は皆に対して同じで

あっても、聞く側の、理解力、関心の対象の

違いによって受け止め方も違いがあり、膨大

なご説法の理解、解釈が違えば、その伝え方

も自ずと異なるのは仕方がないことである。

古歌に「手を拍てば 鯉は集まる鳥逃げる下女は茶を汲む猿沢の池」と歌われて

いるのを思い出す。奈良興福寺の猿沢の池の端で手を叩けば、鯉は餌をもらえると

思いあつまってくる、木の上の鳥はパンパンと手を叩く音にびっくりし、追われる

と思い慌てて逃げ出す。また、傍の茶店のお女中さんはお客さんがお呼びだと思い、

お茶の用意して運ぼうとする。

このように、一つの真理、一つの教えにも、修行者の感性、境地によって教意と

見るか、祖意と見るかにわかれて行くことを、巴陵和尚はのべ、また、敢えて教意だ、

祖意だと分別する必要も無く、教禅一如であることを示された言葉でもある。


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