<今月の禅語>   

    萬物生光輝 (出典不詳)   万物、光輝を生ず




何かの心境の変化やものすごく嬉しいことや、その知らせを聞いたときなど、

飛び上がるほどの喜びが沸き、周りはいつもと何にも変わってないのに、その時は

何かしら見るもののすべてがなぜか新鮮に輝いているように感じることがある。

「去年今年貫く棒の如きもの」と言う句を聞いたが、まさに、

新年で年が変わったからといって、去年と今年が途切れると

言うものでなく、一本の太い棒で貫かれているようなもので、

正月と言っても、去年の昨日となんら変わるわけではない。

浮かれることなく着実に歩めと言うことだろう。


正にその通りである。だが、それでもやはり年があらたまれば

気分も新たになり、昨日と同じ風景なのになぜか、その風景

までがあらたまってお正月の輝きがあり、派手やかなように

見えるのは不思議な気がする。


気分的なことであろうが、気分が変われば見るものまで変わると言う事実まで否定

することはない。
去年の暮れに私は宮崎青島国際マラソン大会に参加し、42.195

キロを完走した。マラソン暦20年以上でも、ゴールしたときの充実感はいつも

新鮮で、本人だけの思いであろうが会う人々が皆、祝福をして
くれているように

も思え、また、
眼に、心に映ずる

ものすべてが同様に輝き、嬉々と

して見える。自分でも可笑しいと

思いながらも、つい感謝の気持ち

があふれて、ニコニコしてくる

のだ。「萬物、光輝を生ず」とは

このようなことの表現としてあてはまらないだろうか。

ただ、それは一時的な現象で、長く続かないのが残念である。


この句の禅語としての意味は、「悟りの目を開けば、それは単なる錯覚でなく、

真実、山川草木、森羅万象ことごとくが仏の光明世界にあって輝いている」という

ことなのだ。お釈迦様が、菩提樹の下で禅定に入られて一週間、12月8日の明けの

明星をご覧になり、豁然としてお悟りを開かれたとき発せられたことばとして伝え

られているのが「奇なるかな、奇なるかな、山川草木、一切衆生皆如来の智慧徳相を

具有す」と言う消息がこれである。

山田無文老師(故)と共に台湾・
宝覚寺の日本人慰霊塔前での回向


私が花園大学に在学中、当時の学長の山田無文老師

のご提唱で、自らの悟りの見性体験を語られた

「沸きあがる喜びがあり、庭の松の枝、葉の一つ

一つが輝いていた。それ以来、自らの持病の肺病が

治ってしまった」というようなお話に、悟りとは

単なる陶酔状態、錯覚的精神状態でなく、紛れも

ない境地の転換であり、仏の眼を開き仏の心をもつことによって、迷いの眼で

眺めた世界とはがらりと変わり、すべてが光り輝く、光明世界に立つことが

出来ることを知らされて、いたく感動させられたものである。


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