<今月の禅語>


  好雪片々不落別處(碧巌録) 好雪片々別處に落ちず




 これは、唐代(8世紀)の禅者・居士(ほうこじ)が道友の薬山惟巌禅師を

訪ねてのときの話。居士(ほうこじ)は維摩居士と並び称せられる在家修行者。

維摩居士はお釈迦様の時代の大富豪で学識もすぐれてお釈迦様の弟子たちも恐れた

という仏教信者である。その居士
(ほうこじ)が薬山禅師とのしばしの談笑を終え

て辞去するにあたり、薬山の弟子たちが門送してくれたときのことである。

門送とは大事なお客様や親しい来訪者を見送るとき、別れを惜しむ

ように玄関から、さらに表門まで出てお見送りする心からのもて

なしの儀礼である。その門送の場で居士
(ほうこじ)はひらひらを

舞い降りてくる雪を見て「やあやあ、なんとも美しい雪だねぇ。

だが、どの雪片も別処に落ちず、かといって同じところにも落ち

ないじゃないか。君たちはこれをどう見るかな?」と問答を仕掛け

たのだ。門送にきた一人の雲水が「別処に落ちずと云われるが、

それなら一体どこに落ちるのですか?」と何とも、青臭く修行者

らしからぬ、理屈での問い返しに、居士(ほうこじ)はすかさず

「バシッ」と平手打ちを食らわしたのだ。

打たれた雲水、むっとして「居士
(ほうこじ)そんなにそそっかしく人を叩くこと

はないでしょうに!」と居士(ほうこじ)の親切な教示が理解出来ずに不平を言う。

叩かんでも話せばわかるじゃないですか?と云った、まだまだ理屈の世界から脱け

出せない雲水である。

  居士(ほうこじ)はこの雲水の愚鈍さにあきれて 「汝、

恁麼にして禅客と称せば閻老子未だ汝を許さざることあらん」

と叱る。君はそんなことで腹を立てたり、こんなことが分らん

ようじゃ閻魔さんなら君を容赦しないだろう」と。雲水また

愚かな問いを発する。「それじゃ、居士
(ほうこじ)、あなた

ならどう答えますか?」と、まだ平手打ちにあったことにとら

われて、また理屈でもって反発してきたのだ。

 そこでまた居士(ほうこじ)はさらに「ピシャッ」と平手打ちを食らわせて「眼に

見て盲のごとく、口に説いて唖の如し」と大喝である。眼に見ながらこの好雪片々が

見えないとは盲も同然し、口にあってもこの落ちる処が言えないでは唖も同然だと

いうわけである。

 われわれ凡人はすぐに一般常識として相対的

見かたをしてしまって物事を見てしまい、理論

理屈で判断してしまうものである。

雪を見る自分と、見る雪を相対的に見れば

居士(ほうこじ)の平手打ちに合うだろう。

見る雪もなく、見られる雪もなく、自らが好雪片々の雪そのもの、天地宇宙に

溶け込んでいるかぎり、蓋天蓋地ただ一枚の己あるだけである。

すなわち、ここがそのまま、そっくり落処ではないか。



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