<今月の禅語>
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花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む。 大いに佳趣あり。若し爛漫・(もうとう)に至らば、 便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履(ふ)む者、宜しく、之を思うべし。・・・ |
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今年は春冷えが続いたせいか、五月の初めの今、承福寺の 庭はまだボタンとつつじが咲誇って参詣者の目を楽しませて くれている。ボタン寺にしているつもりはないが、人づてに 聞いたといって花見客がやってくる。ところが時々「何日ごろ 満開になりますか?」と電話で訊ねてくる人がいるが、これ には返答に困る。花見を楽しむあの染井吉野桜と違いボタン は種類により咲き方が違いがあり、また一株一株、一輪一輪 咲く日はづれるし、天候の具合でも変わる。満開をどの種を 基準にすべきか判断が出来かねてしまうのだ。 |
適当に返事をしていたら、もう咲き過ぎてしまってがっかりさせてしまいかね ないからだ。花の見ごろの判断は人それぞれの感性によって異なることであろ うが、風趣好みの人はやはり半開の美の奥ゆかしさに魅せられるものである。 世間の人は一般に花は満開が一番見ごろで美しいものだと思われがちである。 まさに満開の花の美しさは感動を覚えることさえあるから、美しいと思い込む のは当然である。だが、その満開の花より半開こそ見ごろであり、本当に生き 生きとした美しさを感じさせるし、奥ゆかしさがあり、却って趣きを感じ させるものだ。 ここに「花は半開を看る」の語を味わいたいものである。 |
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そしてまた、酒も十二分に飲む勿れであり、 ほんのりほろ酔い加減がいいのである。あまり 飲みすぎ、酔いつぶれてしまうのは邪道であり、 風流も解せない人であると言えよう。酒は味わい 深く飲みたいものだ。ここに「酒は微醺(びくん) を飲む」の消息がある。 |
このように何事においても斯くのごとくで、すべてが満点、十分であるより、 ほどほどのところで満足し、分を知ることでもある。徒然草の吉田兼好は「花は 盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは・・すべて何もみな ことのととの ほりたるあしきことなり」といっている。つまり、花と云うのは何も満開の盛り だけ鑑賞するものではなく、月も雲もなく皓々として照り輝いている夜だけを 眺めるものではない。むしろ雨の降る夜に隠れている月を思い、満開の花より、 まだこれから咲こうという梢を見上げたり、或いはすっかり散ってしまった庭を |
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しみじみ眺めるのも味わい深いものである。 「よろずのことははじめ終わりこそおかしけれ」 と云い、そのような見方が出来る人こそ真の 教養人、つまり奥ゆかしい品性の持ち主なんだ といっているのだ。 |
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満開の花は誰が見ても美しいと感じられることだろう。しかし、これから咲く 花、あるいは散ってしまった花を想像力で心の中に美しい花を咲かせ、趣を感じ 得るのはそれなりの教養が必要なんだと兼好は言っているのである。 これがさらにわび寂びの美意識につながるのだ。 |