<今月の禅語>
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禅語の中で最もほっとさせられることばがこの「喫茶去」である。 去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何 ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、 「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。 |
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中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚は話である。 その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。 趙州「曽(か)って此間(すかん)に到るや」(お前さんはかって ここに来たことがおありかな?) 僧 「曾(か)って到る」(はい、以前にも参りました) 趙州「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい) またあるとき別の修行僧がやって来た。 趙州「曾(かって)到るや」 僧 「曾(かって)到らず」(いいえ、ここに来たことはありません) 趙州「喫茶去」(左様か、ならばお茶でも一服おあがりなさい) |
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これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめて の者に“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」 とたずねた。趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。院主は思わず「はい」と 答えたその瞬間、趙州はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ) |
このとき院主は、はっと悟ったという。このなぜ悟った かの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の 違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州 の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと 分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに 他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の 分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの 「喫茶去」なのだ。 |
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この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けと して尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきた ことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が 来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまい がちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたい ものである。 |