<今月の禅語> 〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜 |
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趙州、衆に示して云く、金仏 炉を渡らず、木仏 火を渡らず、泥仏 水を渡らず。 此の三転語を挙示し了って、末後、却って云く、真佛 屋裏に坐す。 仏といえば、尊く、お堂の奥の仏壇に奉られ、拝まれてありがたいものである。 それは金仏、木仏、泥や石仏など素材はさまざまであるが、仏の形になって いれば人々はみな仏様と思い込んで拝んでしまう。しかし、はたしてそれは 本当に仏なのだろうか。真の仏は金剛不壊といい、不生不滅であり火に入っても 焼けず、水に入っても溺れず、溶けず、失われることはないという。 |
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ところが、金仏は炉に溶け、木仏は火に焼け、泥仏は水に とけてこわされてしまって真仏といえないではないか。 では真仏とはいったい何なのかと趙州は大衆に疑問を投げ かける。そして自ら疑問に答えて示したのが「真仏屋裏に 坐す」の語である。 屋裏とは、此の場合は家の中という ことでなく、わが身の内、わが生身の肉体の中のことをいい、 真の仏とは「衆生本来仏なり」といわれるごとく、わが生まれ ながら肉体に宿る仏性のことである。ここに禅独特の境涯が あるのだ。禅者は単なる偶像、塑像の崇拝をよしとしない。 |
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焼いても焼けない、水にも火にも壊れない形として求められない真実の仏性を 見ずして、有難い仏ははるか遠くに居ますと思い他に求めるおろかさを戒める。 中国・唐の時代慧林寺の丹霞天然禅師の焼仏の話が有名である。厳しい寒波 襲来の時、丹霞は仏殿から木彫の仏像を持ち出して、燃やして暖をとろうと していた。院主は彼の暴挙をみて、なぜそんな無謀なことをするのかとなじる。 丹霞は平気な顔で、燃えさかる仏像を探りながら、「舎利を求めようとして いるのだ」とこたえる。 |
舎利とは仏舎利のことだ。院主は「木像に 仏舎利があるわけがないじゃないか」と カンカンになって怒る。丹霞は「舎利の ない仏様ならただの薪と同じではないか」 と平然と暖をとったという。 |
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後で、この仏像を焼いた丹霞には罰が当たらず、丹霞をとがめ、叱責した 院主の罰が当たり、眉が抜け落ちたという話なのだが、この丹霞禅師の行為の 真意、主旨は何であるかという公案なのだ。真仏を知らず、ただ仏像という形に とらわれ、有難がる院主の浅薄な知見では禅境には程遠い。一切の束縛常識を 突き抜けた丹霞禅師の純一無雑、無心の境涯に真仏は宿る。まさに真仏屋裏に 坐すである。 |