<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


   



 なんだかんだと追いたくられながら過ごした平成十九年であった。結局やり

残し山積のまんま新たなる年を迎えてしまった。そして否が応でもまた新た

なる一歩を踏み出す事となったが、それは毎年繰り返す去年今年のおもいである。

 「今年はどんな年になるのでしょうか」と問われるが、預言者でも占い師でも

ない私が分かるわけではない。除夜を境に何かが変わるわけも無く、昨日の続き

が今日であり、去年の延長が今年である。


 ただ期待をするならば「どんな年になるか

ではなく、どんな年にしたいか」という各自の

心がけと努力次第なのではなかろうか。

だからこそ、やはり新年の一歩の踏み出しは

新鮮で誓いも新たにしたいものである。

仕切りなおして一からの出なおしである。

 
 さて「一」の字は数字の一二三の一であるが、一は物事の始めであり、偽ら

ざる自然の姿である。修行にしろ、修業にしろその順序としては一二三の次第、

段階を踏んでいく。はじめからの達人、大成者や大人物などはいない。

日々の研鑽努力精進があればこそである。茶の湯の大成者の千利休は「稽古

とは一より習い十を知り、十より帰へるもとのその一」とうたわれている。

 千里の道も一歩から始まり、努力が千里へ

の道に連なり目的地へいたる。だが、いか

なる道も完全ということは無い。

 これでよしとしてそこへとどまり、執着して

はならない。また始めの「一」の出発点に立ち

返り、あたかも春夏秋冬を繰り返すが如く、

自然の循環があって新鮮な心がある。仏道修行も斯の如しで、禅の修行におい

ても究極の悟りをめざしての発心・精進・菩提の終わりなき修行である。



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