<今月の禅語>
〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜 |
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行脚托鉢の修行の雲水の自由自在な心境を表した言葉。衲とは僧衣のことで あるが、僧自らの自称として衲といい、老衲、雲衲、破衲などという。 昔、雲水(修行僧)は僧堂での安居(修行期間)が明けるとよく諸国を旅し師を 訪ね、道をさらに求めたものだという。 |
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その行脚での生活の糧は托鉢であり、また篤信者の お接待であった。その行脚においての僧の財産と云えば、 網代笠に草鞋履きに頭陀袋と一肩の袈裟と自鉢(日々に 使う自分専用の食器)くらいなものである。 それで托鉢をやり糊口をしのいで生活し、縁にした がい境にまかせて西へ東へ、あたかも雲の風に流れる ごとく、また水の流るるごとく一所にとどまること 無く歩き、歳月を送る。その行脚生活のすべてが修行 道場であり、道々に広がる風光、雨、晴れ嵐のすべてが 修行の師であり、仏の教えである。 |
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そんな中にも雲水は境地においてはなんら縛られることも無く自由自在である ところが雲水の雲水たるゆえんである。なりきっていくならば、行脚していても 決して苦しいとか辛いことなんてありはしない。 この語についての以上のような言葉の解釈はできる。だが、ただ現実としては 小衲自身について言えば、こんな雲水の自由なる境地にはあこがれて行脚の旅へ、 形は整えて四国八十八か所を回ってみたが、辛さとみじめさの身を味わう旅で あった思い出がよみがえる語でもある。 |