<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


   空手把鋤頭歩行騎水牛 空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る

   人従橋上過橋流水不流 人橋上従(よ)り過ぎれば、橋は流れて水は流れず (碧巌録)



 禅者の頭の構造というのか、思考回路は一般の常識とはずいぶん異なり、

狂気的行動や言葉をしばしば見受けることがある。倶胝和尚は小僧の指を切り

落として悟りに導き、丹霞和尚は木仏を焚いて暖をとり、南嶽禅師は瓦を磨いて

鏡にすると言ったり、南泉和尚は問答を発して答えられない弟子たちの前で猫を

斬るという非道な行為をしてしまうという奇行の逸話は珍しくはない。

 このように一般常識では測れない独特の言い回しの言葉があるところに禅語

としての面白さがあるのかもしれない。


 「空手把鋤頭云々」の語もその一つである。直訳すれば

「手は空っぽで、農具の鋤をとって畑を耕し、歩いていな

がら水牛にゆったりと騎っている。そして私が橋を渡る時、

橋は流れて水は流れてない」というように実に相矛盾し

理屈に合わない意味である。

 この語は昔の中国の善慧大士の「法身の偈
(げ)」の一節で

ある。善慧大士は在家の身でありながら禅修行をされて

出家修行者をしのぐ力量を得られて、弥勒菩薩の化身と

まで称され、人々からの尊崇を集めた禅者である。

  俗姓が傳〈ふ〉であつたことから傅(ふ)大士とも言われた方である。

傳大士は一人山中の庵にいて、昼間は村に出て村人に雇われて仕事をし晩に

なると庵に帰って、座禅看経に励むなどの生活をしていた。そのときの心境を

うたったのがこの法身の偈である。法身とは森羅万象、自然の一切の事象

そのものが仏の御身であり、ご説法であるということをあらわすことばである。

 傅
(ふ)大士は何時ものようにお百姓さんの手伝いでの農作業において、

鋤をとって無心に畑を耕し続けているうちに、いつの間にか鋤を握っている

ことを忘れ、耕しているということさえ意識もなく、吾れと鋤が一つになり、

無心に徹した心境を「空手把鋤頭」と言い表したものである。

 さらに、一日の仕事が終わり、牛の背なに

ゆられて、家路ににつく帰途はもう心地よい

疲れもあって、もう牛が歩いているのか自分が

歩いているのか、人牛が一体となった無心の

境地こそ
「歩行騎水牛」の語である。

 家路の途次には谷川があり、ざわざわと

流れる水の音が聞こえ、橋の上に立ち止まって

その流れをじっと見つめていると、いつの間にか自分がその自然の中に溶け

込んでしまい、自分が川の流れになって流れているようでもあり、我と流れ

が一体になり橋を渡る我が橋と共に流れている大自然と一体となった無心の

境地を
「人従橋上過橋流水不流」と表したものである。

 無心とは無色透明で、赤が来れば赤に、青が来れば青に、子どもが来れば

子どもに、老人が来れば老人に心を通わせられる。無心の状態なればこそ

人境一如で、無心に触れる山川草木が仏のいのち、仏の姿そのものとして

受け入れ切れるのだ。





戻る