<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


   幾時苦熱念西風 九月西風驚落葉  (東陽禅師遺文)

    幾時か熱を苦しみて西風を念(おも)う 九月西風落葉に驚く



 光陰箭の如しとは言われるが、時の流れの速さは年齢にしたがって反比例を

していくものらしく、老僧といわれる身になれば年々その速さは加速してきた

感じがする。この夏は大雨もあり天候不順な日が続いたが、それでも猛暑日は

連続して、随分クーラーのお世話になりながら、早く涼しい季節の到来を

待ったことだった。「暑さ寒さも彼岸まで」でようやく彼岸花を揺らす風には

秋の色が感じられてきたようだ。


 「幾時か熱を苦しみて西風を念う」とはそういう真夏の熱暑

のときには早く秋が来て、西風(秋風)が吹いて涼しさを運ん

で来てくれないかと思うものである。ところが、ここでは旧暦

ではあるが九月に入ると急に秋風が吹き、めっきりと涼しさを

通り越して朝夕の肌寒さに震える。秋の陽の釣べ落しならぬ、

季節まるごとの釣べ落しのようにさえ秋色を深めて落葉を促

してゆく様に驚かされてしまう。しかし「幾時か熱を苦しみて

西風を念
(おも)う 九月西風落葉に驚く」の語は室町時代

後期の妙心寺の祖師である「東陽英朝禅師が後世の学道者に

修行の心構えとして言い残した遺文であるから、単に自然の

移ろいの詩情を歌っただけものでない。「幾時か熱を苦しみ

て西風を念
(おも)う 九月西風落葉を驚かす。

 看よ、光陰、此の如く遷り易し。諸禅徳、甚麼辺
(なへん)の事をか成し得たる。

吾が臨済の門庭、甚麼
(なん)の事か有る。人人具足(にんにんぐそく)、箇箇円成

(ここえんじょう)
、惜しいかな、自信不及して、自ら棄て、自ら怠ることを。

 一刹那の間に頭童
(こうべかむろ)に、歯豁(はまばら)にして、臍(ほぞ)を噛む

とも及ぶことなし・・・」と遺文は続く。このように光陰はまたたくまに過ぎて

いく。禅学道を志す修行の皆さん、あなた方はこれまでどれだけの修行を積んで

こられたか。吾が臨済宗の法門と言うものは決して難しいと言うものではなく

「人人具足、箇箇円成」で人は皆仏から頂いた仏の心である仏性を具有し、

誰もが悟り、仏になれるのだ。

 しかし、惜しいかなそのことを知らずか、

信薄く修行に打ち込むことをせず無為に過ご

していないだろうか。まことに惜しいこと

である。人間の一生なんて夢幻の如しである

のに、修行を忘れていたずらに無為な時間を

過ごしている間に年をとり頭の毛は抜けて、

歯はまばらにして、臍を噛むことになってしまい悔やんでも間に合わなくなって

しまうだろう。臍を噛むとは後悔し悔しい思いをすることであるが、そうなっては

もう遅く悔やんでも後のまつりである。

 このように、英朝禅師に限らず祖師方は後進の修行者に対して放逸にして日を

過ごすことなかれと、厳しく諭されてきたことである。しかし、凡僧でもそれは

もう理屈では分かってはいるが、ついつい日常の法務に流されてしまい、或は

俗事にかまけて、ふと気づく「西風落葉に驚くとき」は既に遅きに失して臍を

噛む結果になってしまう。そうなっなたときもう、あきらめざるを得ないでは

ないかと済ませればいい事なのか?。




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