<今月の禅語>     ~朝日カルチャー「禅語教室」より~


   非風非幡
(ひふうひばん) 仁者心動 (無門関)

        風に非ず 幡に非ず、仁者が心動く




 六祖、因みに刹幡(せっぱん)を颺(あ)ぐ。二僧有り、対論す。一は云わく、

幡動く。一は云わく、風動くと。往復して曾て未だ理に契わず
(かなわず)

 祖云わく、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くに非ず、仁者の心動くのみと。

二僧悚然
(しょうねん)たり。

 六祖慧能禅師は五祖弘忍(ぐにん)禅師の法の奥義を受け

伝法衣を引き継いだものの、身分なく真っ当な出家得度者で

なかったことなどから、五祖門下の承認が得られず弘忍の奨め

によって、さらに修行行脚の旅にでた。そんなあるとき広東省・

法性寺の印宗和尚の「涅槃経」の講座があることを聞きつけて

法性寺を訪ねたときのことである。講座が開かれる法堂の

前には幡が立てられて折からの風にあおられてパタパタと

音をさせてはためいていていた。

 法座開始前のひと時、参集の人々の中の二人の僧が議論を

始めた。一人の僧は「幡が動く」という。もう一人の僧は

「風が動く」という。二人の主張は対立して互いにゆず

らず言い合って折り合いは着きそうにもなかった。

 法座開始前のひと時、参集の人々の中の二人の僧が議論を始めた。一人の僧は

「幡が動く」という。もう一人の僧は「風が動く」という。二人の主張は対立して

互いにゆずらず言い合って折り合いは着きそうにもなかった。「動くのは風では

なく幡である」か「いや幡が動いているのでなく、風が動いているのだ」と。

 我々凡人には聞くのも阿呆くさい議論にも聞こえる。常識的には「風が吹く

から幡が動くのだ」という物理現象としてしか見えないのだが、そんなことは

当然この二人の僧が知らないはずはないからややこしい。


 風は無色透明で風そのものの動きは目には

見えない。風を見たり感じて認識できるのは

我が肌身に風がふれてこそ風を感じたり、

幡のなびきや木の枝の揺れや木の葉の葉擦れ

の音や雲のたなびき流るるさまに風を見、

認識できるのである。風は風以外の動きや

反応によって風があるとか、風が動いて

いるのだとわかるのである。この論法の

一面からいえば動いているのは幡であって

風に非ずということも言えなくはない。


 だが、こんな二人のやり取りを見ていた六祖慧能は二人に割って入り

「風動くに非ず、幡動くに非ず、仁者
(あなたがた)の心が動いているのだ」と。

 風が動くのでもない、幡が動くのでもない。あなた方お二人さんは目の前の

現象に心を奪われているだけなのだ。外の対象に心を動かすのでなく、それに

動かされている自分の心をしっかり侍することを叱ったのかもしれない。

 二人の僧はまさに幡だ、風だ、動くの、動かないのなどの相対的観念を

ズバッと断ち切られて悚然
(びっくり)としたことである。

 だが六祖の言う「心」とは自己がそのまま天地宇宙一枚になった心境から

発する絶対的「心」であり、森羅万象すべてがわが心の動きであり、風と

一体、幡と一体の心境なのだ。だから、またどんな現象であっても、

さらに「心動くに非ず」の心不動であることをが求めたのである。




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